逆転姉妹の始まり

「どうです?これから三年間、薫子ちゃんが暮らしていく寮は?」

小さな上級生が紅茶の用意をするのを見ながら、薫子は早くもリリアンについてまったく調べていなかったことを後悔していた。

自己紹介から歓談しながらの夕食という流れの入寮式が終わり、案内されて周防院奏の部屋に入った今も落ち着かない。

薫子自身の部屋は引越し荷物のダンボール箱が積まれているので、とても落ち着いて話ができる状況ではないから、上級生の部屋にお邪魔していると言うのもある。
その上、今頃気を遣ったほかの寮生たちの手によって荷解きが行われていることによる情けなさもある。

何より、自分がこの場所には場違いすぎるのではないかという恐れが薫子を憂鬱にしていた。
最上級生の久保栞さんや御門まりやさんをはじめ、リリアンの寮生たちはみんな薫子とは全く違う…違いすぎる…。

「薫子ちゃん?」
「あ…いえ」

リリアンの寮生たちの…そしてこの寮自体の整然とした秩序は上品という言葉とは無縁の薫子にとって、無菌室のような不気味さを感じさせてくるけれど…せっかく部屋に招いて紅茶まで淹れてくれた周防院奏さんにそれを言う気にはなれなかった。


「この学園の中には、確かに他とは違った雰囲気が流れています。でもそれは、この紅茶の香り程度のものだと思いますよ」

そして、目の前の小さな上級生は、紅茶の濃度を測るように…遅刻してきた不届きな新入生の心の内を見通しているみたい。

深く考えようとするのも疲れたとばかり、半ばヤケになって差し出された紅茶を飲んでみることにした。


「美味しい!?」

紅茶なんてあまり飲んだ事がなかったから、ただの色水のようなものだと思っていたけれど…

信じられない…

「紅茶を淹れることには、少しだけ自信があるのです、他には自慢できることもないのですけど…」

こんな…一気飲みするのがもったいなく感じるほどのものだったなんて…


「そんな…確かにあたしは、あんまり紅茶なんて飲まないけれど、でもこれがいい加減に淹れた紅茶とぜんぜん違うことぐらいはわかりますっ」

心地よい香りを時間をかけて味わっていたいと思わされるものだったなんて…

「きっと私も、外の世界でお茶を淹れたら…こんな風に丁寧にしようとは思わないでしょうね」

薫子自身の紅茶に関する認識をひっくり返してしまうような芳醇な香りを『こんな風』…で済ませてしまう辺り、この人も薫子の理解を超えてしまっていると思う。

「それはきっと、薫子ちゃんが思っているほどに奇妙な違いではないと思います。
ここではきっと、みんながこの紅茶の分だけ優しさを大事にしていている。
大事にしていることを誰も馬鹿にしたりしない。
その違いだと思うのですよ」

だけど、不思議と寮に来てから感じていた疎外感は消えていた。
もしかしたら、今も感じているこの香りが…純粋に…薫子を歓待するためのものだからなのかもしれない。

「正直なところ、柄じゃないところに来ちゃったなって思ってた。
いや、それは今でも変わらないけど…
でも、あたしみたいな横柄な女にここまでしてくれる。
そんな奏先輩の言う事は信じたいよ…」

その言葉に満足したのか、薫子に続いて紅茶の香りを楽しむ周防院奏さん。
この小さな上級生が「薫子ちゃんのグラン・スールになります」と言った事の意味する所については入寮式の途中に御門まりやさんから教えられた。

正直なところ、自分とこの小さな上級生が姉妹関係になるということは頭痛の種でしかなかった。
周防院奏さんが久保栞さんと交わした会話の内容だと、薫子の面倒を見ることによる久保栞さんへの負担を減らすために周防院奏さんが薫子とリリアン独自の制度を適用するという事らしい。

しかしそれは、リリアンにそぐわない自分…育ちの悪い足手まとい…のせいで周防院奏さんに負担をかけると言う事じゃないだろうか?…と不安だった。

「私が久保栞さまへの負担を減らすために、薫子ちゃんの指導役を買って出たことに引け目を感じているのですね」
「え…う…うん…」
さっきから考えていることは完全にお見通しだった。

「わかりますよ。私も去年はしばらくの間、久保栞さまに対してそんな風に思ってましたから…
あの方は他に妹がいますが、私の事も…とても大切にして下さってます…」

さすがは生徒会長の一人だ。久保栞さんにも妹がいて、そしてあの人はこの周防院奏さんの面倒も見ていたらしい。

「久保栞さまから頂いた恩をお返ししたい…そんな気持ちがなかったといえば嘘になります。
でも、私は薫子ちゃんが来る前からすでに決めていたのです。
新しく入ってくる寮生の中で、一番元気な子を妹にしようと…」

『一番元気な子』。なるほど確かにその条件に当てはまるのは薫子だろう。
妃宮千早さんは見かけからしてお嬢さまだし、度曾史さんは大人しい。
皆瀬初音さんは見ていて危ういぐらい落ち着きがない。

「今日はまず、リリアンの特性を教えましょう。
まずははじめに、薫子ちゃん。リリアンでは、姉をを『お姉さま』と呼ぶのが慣わしになっているのです」
「えっ…」

固まった…自分でも間抜けだと思うような声を上げて固まってしまった…。
「う…嘘…でしょう?」





「薫子ちゃん。部屋の準備が終わったわよ」

リリアンにおける心構えや、姉妹の役割分担、最低限の注意事項と学園生活について奏さんに教わっていると、そんな声とともに上岡由佳里先輩がドアを開けて現れた。

明日の準備もしなければならないので、上岡由佳里先輩と周防院奏さんと薫子の部屋に移動することになったのだけれど…

自分の部屋に入室して、また驚かされることになるとは思いもしなかった。


「どう?素敵な部屋でしょ?」
上岡由佳里先輩のその質問が、わざと焦点をずらしている事がわかっている。

この寮では部屋の内装や家具は、生徒の意向が反映される。
だから、壁紙なども特にこだわらず『普通に見える』ものを選んだつもりだったし、実際その通りだった。

注意を引いたのは、部屋に運び込まれた荷物の状態だった。

必要最小限の荷解き・ベッドメイキング・おまけに制服は綺麗に折りたたまれており、次の日の準備まで整えられていて、部屋が自分を迎えているような印象を与えてくる。


注目すべきは部屋自体ではなく、部屋がどう整っているか…なのだということぐらい、薫子にだって理解できている…のだけれど…。

「え…ええ。す…すごいと思います…」
そんな、間の抜けた返事しかできなかった。


「ま…ここまでやったのは史ちゃんよ。
 妃宮千早ちゃんの侍女をやっているらしくて…つい張り切っちゃったのね」

こんな…どこぞの旅館とかしかでしか体験できない備えを『つい張り切っちゃった』で済ましてしまう人達は、薫子の理解を完全に超えてしまっている。


「後で妃宮千早ちゃんや度曾史ちゃんにはお礼を言っておかないといけませんね」

あの二人…、主人と侍女の関係らしいけど…。

苦労して育ててもらった以上、生まれや育ちのせいにしたくはない。
けれど、自分とは開きがありすぎて目まいがしそうだった。






周防院奏さんと上岡由佳里さんに連れられて、一階の談話室に入ったけれど、…お礼を言おうとした銀髪のお嬢さまとその侍女はいなかった。


「お二人とも、お風呂に入ってます」
皆瀬初音さんが教えてくれる。

「御門まりやさんは、その二人の入っている風呂場に突入しました…」
久保栞さんはあきれて付け加えるけど、平然と紅茶を飲みながら本を読んでいる事からもう慣れているらしい。

「あの…リリアンの人達って…侍女と一緒に来る人が結構いたり…します?」
否定される事を期待しながら、そんな事を聞いてみた。

「えーっと…私の知る限りでは…いませんね」
この場の最年長の久保栞さんが答えてくれる。
だとすると、千早さんと史さんのケースは極めて稀なのだろう。


「…みなさん。史ちゃんが千早ちゃんの侍女であることを、できるなら秘密にしてあげて下さい」
少し考えた後、久保栞さんがそんな事を言ってきた。
そういう事は当人の了解を得てするべきだと思うけれど、どうしてあの二人がいないところで言うのだろう?

「どうして?」
「理由は…今はまだ…言えません」
薫子が尋ねても、理由を答えてくれないのが更に不審に思えてくる。


「影でコソコソするのは、嫌いです…」
久保栞さんにそう言ってなおも問い詰めようとするけれど、突然腕を引かれて、中断させられた。

引かれた腕には、周防院奏さんの小さな体がしがみついている。

「薫子ちゃん。人には色々な事情があって、色々な悩みを持って生きています。
 それは妃宮千早ちゃんも同じです。
 栞さまは千早ちゃんが隠しておきたい『何か』を知っているのだと私は信じます」

「『何か』って何ですか!?あたし達にもそれを教えてくださいよ!」
久保栞さんの不審な様子と、それを擁護する周防院奏さんの不自然さにいらだってしまい…
きつい口調になってしまった事に言ってから気がつく。

その言葉で自分の腕を離した小さな上級生の表情を見て…後悔した。
さっきの言葉は決して口にしてはならなかったと思い知らされるのに十分な…思いつめた表情で…

「例えば私は、両親の顔を知らずに施設で育ちました…
 ここには奨学金と、わずかですが養母の残してくださった遺産で通っています」
その言葉の意味する事のあまりの大きさに…薫子は卒倒しそうになり、側にあった椅子に倒れこむように座り込んでしまう…椅子がなかったら危なかった…。

大人しくて控えめな小さな上級生はそんなそぶりは微塵も見せていなかったのに…

一年生の皆瀬初音さんも驚いている。
上岡由佳里さんと久保栞さんは難しい表情をしているけれど、驚いていない…知っていたようだった。

「私は少し前まで、この事を隠して生きてきました。
 でも、栞さまに教えられたのです
 『あなたががんばっている事を、ちゃんと誇りに思わなくてはいけません』と」

周防院奏さんの久保栞さんへの信頼…いや敬愛の理由はあまりにも薫子の考えられるものからかけ離れすぎていて…。

「だから…私は薫子ちゃんにも、栞さまを信頼して欲しいのですよ」

「その…ごめん…なさい…」

奏さんの必死な様子に、謝ることしかできず、奏さんにこんな事を言わせてしまった自分への自己嫌悪で頭を抱えたくなってしまう。

「薫子ちゃんの真っ直ぐなところは、私も好きですよ」
栞さんのその言葉にようやく、許されたのだという気がして…その場にいた寮生達と話を始めることができた。





「上がりましたか…ってああぁー!」

しばらくして風呂場の様子を見に行った皆瀬初音のヘンな上げた声につられて、久保栞さん・周防院奏さん・上岡由佳里さんの三人と部屋を出ると…


…白銀公女さまがおられました…。
王侯貴族のようなゴージャスな寝巻きに身を包んだ、肖像画に出てくるお姫さまがいました。


「す…すごく似合ってる…千早ちゃん。お姫様みたい…」
その初音さんの言葉に…そのお姫様が妃宮千早さんなんだって事に気づかされる。

Beautifuビューティフル!」
…栞さん…、発音がすごく上手いです。

「栞、キャラ変わってるわよ」
「私だって羽目を外したい時ぐらいありますよ…それに…」
栞さんは隣にいた周防院奏さんをを見て先を促す…。

「綺麗な女の子に綺麗だって言うのは義務なのですよ、言われるほうもです」
なんだか奏さんらしい物言いだ…。

「なんだか、『パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない』とか言いそうだね」
もう、あまりの破天荒ぶりにまた思ったことをそのまま口にしてしまう。

「自分で選んだ寝具でしたら…素直にお礼を言いたいところなのですけれど…」
「それは、誰がお選びになったのですか?」
「母です」
「ふーん、自分の娘のことをよくわかってるんだ…ちょっと羨ましいかな」


「羨ましい?」
あ、その場の寮生全員がこっちを見てきた。
さっき…周防院奏さんがしたように説明をしないと…

「あ…いや。あたしは生まれたときから母さんがいないから、どんな感じなんだろうって…」

げ…
言ってしまって気がついた。こういうことは軽々しく口にすべきじゃないって事に…

「この寮にはあなた以外にも。本来いるべき家族の方がいない人はいます。
 でも気にしないで下さい」
久保栞さんはそんな事を言うといきなり歩き出した。

「私の家族は皆さんです」
笑顔で、そう言い残して立ち去るその姿が、また得体の知れないものに見えてしまった。






「一体何なの…あの人…なんだかおかしいよ…」

「薫子ちゃん。あたし達は今日が初対面なのよ。
 さっきみたいなディープな話題は互いのことを知り合って初めて許されるものだって事…わかってもいいはずだけど」
なぜだろう、あの人が決して悪い人じゃないんだってわかっているはずなのに…


「…ごめんなさい」
「わかれば、もうこの話題はあまり口にしないこと。
 今は、この寮でマトモなのあたしと初音ちゃんだけってことだけ言っておくわ」

…わからない…

「あと、栞は大切なものが欠けちゃってるのは認めるけれど。
 誰よりも愛情にあふれてる事も確かよ」

「でも、あの人だって今日が初対面のあたし達のことを家族だなんて…」

無菌室めいた…あの人の気味の悪さが…理解できない。

「薫子ちゃん。
 あの方は不可思議な所がありますが、決して私利私欲で働く方ではありません。
 …と言うより私利私欲というものを両親と共に無くしてしまったのです」

両親と共に…亡くしてしまった…。
じゃあ…それは…周防院奏さんと…ほぼ同じ…。

「そんな…あたし…なんて事を…あ…謝らないと…」
もう訳がわからない…どうすればいいのかも…あたしが親父にしてきた事も…。

「やめておきなさい。栞はあなたの言葉を毛ほどにも感じてないわ。
 頭を下げたところで逆効果だと知りなさい」
「でも…だったらあたしはどうすれば…」

ぐちゃぐちゃで何も考えられない…。

「簡単ですよ」

「その真っ直ぐな態度のままで。
 あの方のことを母親だと思ってあげればいいのです」

妃宮千早さんの言葉だった。

母親というのは…ああいうもので…今まで知らなかったからわからなかっただけなのだと…そう言ってくれている。

「千早…」

その言葉に、一気に胸のわだかまりが消えていく…


「うん…そう…そうだよね。ありがと」

そう言って、ようやく落ち着くことができた。





順番に入浴して、寮生のみんなと明日の予定を聞いて、部屋に入る。
整えられた部屋を見て…今日は、驚くことばかりだったと思わされた。


遅刻をして、それでもフォローをしてくれた、それでも不可思議なヘンな3年生。

その3年生を尊敬しながら、つたない薫子のことを妹にして、教え導くと申し出てくれた周防院奏さん。

そして、すごく綺麗なお嬢さまでありながら、侍女や周りへの気配りも忘れない妃宮千早さん。

こんな人たちに会えたことに感謝しながら…
家族との関係を断ち切りたい一心でこのリリアンにやってきた自分はなんて…卑しい存在なのだろう?

この胸のわだかまりを、小さな先輩や、妃宮千早さんに話したらどう思うだろうか。
わからない…そんな事を考えながら、部屋の明かりを消した。




あとがき

七々原薫子、空気が読めなさ過ぎ…おまけに久保栞さんとの相性が悪すぎる…。
おとボクキャラのスペックが高すぎるせいで自分にも展開が読めません。


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