櫻館の入寮式(後編)

「わかっているつもりです。栞さまが託された責務を果たすためにがんばりすぎている事も。ですから、奏にも、去年一年間に栞さまから頂いた恩情を薫子ちゃんに継がせてください…私に薫子ちゃんへの指導を任せてください」

たった一年の付き合いと思われる周防院奏さんでさえ、ここまで久保栞さんの事を心配しているとなると…まりや従姉さんがあそこまで親密になってしまうのもうなずける。

いつも笑顔を絶やさないけれど、今の笑みの消えた表情が素の栞さんなんだろう。
こんなものを見せられたら、誰だって手を差し伸べたくなってしまう。

「奏ちゃんがやるというの?でもそれは難しいわ。
まるで私達2人が職務放棄してるみたいじゃないの…」

「奏は、薫子ちゃんのグラン・スールになります!」
まりや従姉さんの反対を押し切るような感じで奏さんは宣言するように言い放った。



その言葉に、その場の寮生のほとんどが固まった。
まりや従姉さん、上岡由佳里さん、皆瀬初音さんに当の七々原薫子さんも…史まで…。

ただ一人、久保栞さんだけは冷静なままだった。

「いいですよ、奏ちゃん。あなたの好きなようにしなさい」
あれ?久保栞さんは奏さんの宣言に驚いていないない。
先程までと違った平然とした態度…まるで、奏さんへの興味を失ったかのような冷たささえ感じさせる。

「ちょっと、白薔薇さまロサ・ギガンティア、何を考えてるの?」
姉妹スールの関係については、私達上級生がとやかく言うべきことではありません」
って、白薔薇さまロサ・ギガンティアであり寮監生である方にあるまじき発言だ…。


「それに…今の紅薔薇さまロサ・キネンシス紅薔薇のつぼみロサ・キネンシス・アン・ブゥトンの姉妹宣言も似たようなものでした。
突発的な姉妹の申し込みが決して悪いものではない事の証明がまた一つ増える事を楽しみにしていますよ」

つまり、栞さんは、同じような姉妹宣言を知っていて、その前例というのは、紅薔薇さまロサ・キネンシスとその妹のものらしい。





「これから2人が合意の上で結ばれるか、どちらかが愛想をつかされるか…その転機が訪れるまで、私も御門さんも関与しません」

七々原薫子さんと周防院奏さんの2人の事については保留という形で話が終わった。

次に、寮で生活するうえでの情報の確認が行われたけれど、寮則や細かな注意事項については千早と史はすでにまりや従姉さんから、皆瀬初音さんは由佳里さんと奏さんから既に聞いており、薫子さんにはこれから奏さんが教えていくということになる。

姉妹の関係になるかどうかは別として、七々原薫子さんと周防院奏さんにとっての初めての共同作業になるだろう。


事務的な話が終わると…いきなりまりや従姉さんが立ち上がって全員に語りかける。

「さあ、堅苦しいのはこれで終わり!これからは楽しい楽しい迷える子犬たちのお食事よ!」
「御門さん。迷える子犬たちとは誰ですか?子羊では?」
これまでのやり取りを見てわかった。
やけにハイテンションなお嬢さまらしからぬまりや従姉さんと、物静かでしっかり物の久保栞さん。2人は今までこうやって息を合わせてこんな…和やかな雰囲気を作り出してきたんだろう。

「そこのお預けされた犬みたいに食卓を見つめてた貴様らだーっ!」

そりゃ…いくらお嬢さまでも食事の準備をした上で8人分の自己紹介なんてやったら食卓に目移りぐらいしますよ…

薫子さんと初音さんは恥ずかしさにうつむいているけど…由佳里さんはまりや従姉さんの性格を熟知しているのか苦笑するだけだった。

「いいえ、奏の見ましたところ…史ちゃんだけは一回も目を食卓に移しませんでした」
そして冷静に観察する奏さん。意外と鋭い。


「ぐっ…恐るべし史、この状況でパブロフの犬(※1)を抑えきるなんて…御門家の侍女をやりすぎて人間やめてんじゃないわよ」
「私は侍女ですから」
あと、お客様として応対した事が何度かある史は全く動じてない。

「はい。じゃあ、恒例の食事の前のお祈りよ。千早ちゃんに薫子ちゃんは知らないと思うけど…手を合わせてね」

「主よ、今から我々がこの糧を頂く事に感謝させ給え。アーメン」

「アーメン」
「…アーメン」

外部編入の千早と薫子だけは、他の人の声を聞いてから結びの言葉を付け足した。

…と言うより。久保栞さんの祈りがあまりにも型にはまった違和感のないものだったので。つい見とれてしまっていたのだけれど…。





英国式の食事に戸惑い、その味の錬度に驚きながら…まりや従姉さんに寮の料理が寮母さんにより代々伝えられてきたものだと教えられて伝統の深さを実感する。

「はいそこー。千早ちゃんの給仕ができないからって不機嫌にならないの。調子狂うのはわかるけど」
先程、給仕をさせて欲しいと史は言い出したのだけれど…千早と上級生2人の反対により却下された。
栞さんもまりや従姉さんも、基本的に人に何かをさせると言う事は好まない性格をしている。
特に栞さんは宗教的な理由も絡んできているため、仕える人の趣向や健康を気遣うのも仕事のうち…と心得る史としては希望を取り下げるしかなかった。


「それにしても、まりやお姉さまがこんな親しい友人を外部にお持ちだなんて知りませんでした」
「親戚だからね。私は幼稚舎からずっとリリアンだからそうでもないと外部に知り合いはいないわ」
僕としても昨日までまりや従姉さんにプティ・スールがいるなんて思いもしなかったし、栞さんのような友人がいたのにも驚いてる。


「ああ…外部の知り合いと言えば…忘れるところだったわ…ちょっと皆さん注目〜」
その声と共に、キン…という高い音が鳴る。
まりや従姉さんがガラスのコップを器用に鉄琴のように鳴らし、その場の全員の注意を引いた。
思い思いに会話をしていた寮生達がまりや従姉さんに注目する。

「実はね…まだ栞にも知られていない事なのだけれど…この寮にはあと一人。新しい人がやってくるわ」


「どういうことです?名簿には確かに、4人の新入生とあったのですけど」
「それは『新入生』の名簿よ…やってくるのは『編入生』。
手続きもあるから入ってくるのは二週間後になるわ。
本当はサプライズにしたかったけど、ちょっと事情が変わったのよ」
「編入生…ここ数年リリアンに編入生はいなかったはず…何かあるのですか?」
栞さんがいぶかしむようにまりや従姉さんに尋ねる。
う…新入生の一人が不登校だったと言う事を知っている栞さんらしい懸念だ。

「ううん。その人の事をあたしはよく知ってる。
根はいい人だからあまり心配はいらないわ。
ただ、その人は三年生で入ってくるのよ」

そんな重要な事を秘密にしておいて脅かそうとするなんて…相変わらずの性格だ。

「三年生で編入する事自体がトラブルになりそうですが…御門さんが心配いらないと言うのなら私達が気に病むことでもありませんね」
「そうなると最上級生は三人になりますね。楽しみです」

この時に気付くべきだった…
『サプライズにしたかったけど、事情が変わった』
その『事情』は僕…御門千早が寮に住むことになった事により変わったのだと言う事に…



パブロフの犬(※1)
条件反射のこと。
犬にメトロノームの音と同時に食事を出すと、条件反射で唾液を出すことが発見されたことから。条件反射の例えとして使われる。

あとがき
ようやく話題の上だけの登場、あのお方。
その正体を知った時千早は何を思うのか?

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