初日の終わりに

まりや従姉さんの入れてくれたレモングラスやハイビスカスを混ぜたハーブティーは、妃宮千早にとってはなじみのないものだったけれど、
程よい香りの調整が加えられていて、久保栞さんが話の重さをやわらげてくれた。

その香りの残滓を楽しみながら、さっきまで久保栞さんの口から語られていた、十条紫苑さんへの対応について考えてみる。
十条紫苑さんとの会話を妃宮千早に聞かせることも含めて、栞さんの対応は適切だったように思える。


「千早ちゃんはどうして千早ちゃんは修身室にいたのです?」
あ…やはり久保栞さんも気になるのか。

「松平瞳子さんに、華道部の体験入部に誘われたのです」
どのみち、まりや従姉さんにも史にも言った…この場で言うのも問題ないだろう。

「私は…不都合がなければ華道部に入部しようと考えています」
それを聞いて、栞さんは困惑したような表情を浮かべてくる。
無理もない、御門千早本人も、理解できていない心境の変化なのだから。

女装してリリアンに通っている身としては、人と関わる事は身の破滅の元にしかならない。
目立たず、騒がず…が基本方針だったはず。

「人のことを言えた立場ではありませんが…あせるのはいけませんよ。
 部活はこれからの3年間に大きく関わる選択です…せめてリリアンの生活に慣れてからでも…」
栞さんの言っている事は正論だ。
加えて、栞さんは『不登校』と言う事情だけ、妃宮千早のことを知っている。
慎重になるのもわかる。

「まあ…やりたいと言うのなら…やればいいんじゃないの」
御門千早の正体を知る、まりや従姉さんの困惑も抜けきっていない。
それでも、まりや従姉さんの言葉に久保栞さんはうなずいた。

「わかりました。でも、困った事があれば何でも相談して下さいね」
気遣いを忘れずに、栞さんはそんな事を言ってきた。


「それにしても、御門まりやさんも久保栞さんも、千早さんの事を心配しすぎじゃないのかな」
これまでの流れから…上級生2人の不穏な空気を感じ取ったのか、七々原薫子さんがそんな事を言い出す。


「2人が私に気を遣うのもわかるのです…」
昨日からのやり取りでわかったことがある。
七々原薫子さんは言葉による器用な受け流しや当てこすりを病的なまでに嫌っている…
中途半端に事実を伝えたり、秘匿主義はこの人の反感を買うことにしかならないのだと言う事を…

「なにしろ私は、不登校だったんですから」
本当の事を言わないと、決して納得してくれそうにないこの人に、本当のことを口にした。

「千早ちゃん…」
「何…を?」
事情を知る栞さんとまりや従姉さんが更に困惑する。
確かに、この事はおいそれと人に話していい内容じゃないかもしれない。
七々原薫子さんと、周防院奏さん姉妹に聞かれて都合がいい話ではないかもしれない。

「私は…これからは栞さんみたいに、与えられる人にになるんです」
その言葉の8割は嘘だ。
栞さんは生徒会長の一人で…礼拝堂の管理人で…寮監である。
彼女が『与える』対象はリリアンの全生徒といってもいい。更に、与えられるものはこの人にしかできない類のものだ。

反して、御門千早が与えられるのは華道の指導に関わる事だけ、
そして、与える対象も華道部の部員と言うわずかな人数に限られる…哘雅楽乃さんや冷泉淡雪さん、十条紫苑さんという代わりもいる。

昨日までの自分なら、くだらない役割だと笑って投げ出しそうなものなのに…
それが尊いと思ってしまう自分がいるのはどうしてなのだろうか?

「誰にでも、知られたくない過去や、家族との軋轢あつれきはあるものなのです」
そしてそれは、知らないほうがよい類のものもある事を、薫子さんに知らせることができるかもしれないなら…
知られても構わないなんて、思ってしまったのはきっと…

「無理はしないで下さいね…」
こんな風に…こちらの心のひび割れを見透かしたような事を言ってのける久保栞さんだったりする。
確かに…御門千早にとって、今は無理をしているのだろう…でも…

(華道部に入りたいと考えるようになったのも、たぶん栞さまに当てられたからですよ…)
…変えてしまったのは、栞さまだけじゃないけれど。
一番影響を与えたのは栞さまで間違いない。

「私の数少ない取り柄を生かしてみたいと…思うようになってしまったのは…栞さまのせいですよ…」
栞さまは、自分の事を「祈ることしかできない」とか表現していたらしい。
そしてそれは栞さん本人から見てしまえばそれは正しくて…なのに栞さまは周りの人から慕われるぐらいに…そして御門千早を変えてしまうぐらいに白くて…

(自分の心の意地汚さを信じてしまっているはずなのに…何かをしたいと思うようになったのは栞さまのせい)
この思いを…正面から言葉を投げかけるようにはなれない…薫子さんのようには…


「あ…」
いきなり、栞さんは呆けたように…こちらを見つめてきた。

「今日の所はここまでにしましょう。話が込みすぎて我を忘れそうになってますよ」
七々原薫子さんの付き添いとしてこの場にいて…それまで沈黙していた周防院奏さんがそんな事を言う。

「そうね、奏ちゃんは薫子ちゃんと部屋に戻りなさい。あたしは千早ちゃんの部屋で話すことがあるわ」
久保栞さんはまりや従姉さんの言葉に少しだけためらった後、同級生の言葉に従った。




「栞が話の締めくくりの祈りを欠かすなんて、アレはかなり動揺しているわよ」
史と合流して史の部屋に入るなり、まりや従姉さんはそんな事を言い出した。

妃宮千早の部屋は、柏木優雨ちゃんが使っているので、今夜は史の部屋で2人で寝る事になる。

「すみません、薫子さんではありませんが…出すぎたことを言って…」
「非難する理由はないわ、むしろ…よく言ってくれたわ」
まりや従姉さんは椅子に体を横たえながら、思いに沈むように天井を眺めている。


「華道部へのまだ入部については、基本的には賛成よ。
あたしの陸上部とは違って着替えたり激しく動いたりするわけではないし…
接触する人間は限られるしね…」
そして、今日。妃宮千早が華道部の見学をしたことについて述べてきた。
途中で皆瀬初音さんの乱入と、柏木優の登場により中断されていた話を再開する形になる。

「作法中にトラブルが起こるなんて事も考えにくいです。
 加えて、千早さまは華道の経験がおありです。
 部活を口実にして女生徒同士の誘いなどを波風を立てることなく断れると言うのもよい点かと」
史も賛成してくれる。

「そっか、千早ちゃんは華道もそれなりの腕だったわね。
 その点は心配要らないけれど…心配なのは十条紫苑さまと一緒にいる機会が増える事よ」

「十条紫苑さまと?」
またあの例の留年お嬢さまの事が何か?

「十条紫苑さまはもともと華道部の指導係なの」


「迷惑だなんてとんでもない。あなたのご指導に私たち部員一同、心から感謝しております」



香原茅乃という華道部部長のあの態度が思い出される。


「大丈夫ですよ、最上級生に対して失言を蒸し返して不快な思いをさせたりはしません」
たかが失言一つに神経質になるのも大人気なさ過ぎる。
それは、さっき栞さんと話し合ったはずだけれど…

「そうね…いくらあの人が鋭いからといって。千早ちゃんの正体に気付くなんて事はまず考えられないか…」
どうやらまりや従姉さんは、別のことを心配していたようだった。

「ところで、久保栞さんは大丈夫なんですか?」
部屋を出る前、久保栞さんは少しただならぬ様子だった。
それはまりや従姉さんが指摘した、『締めくくりの祈りを欠かした』ことからも明らかである。

「千早ちゃんに責任はないわ…ただ…悪条件が重なった上の不幸よ
 その顔で…『栞のせいだ』…か、佐藤聖さまの事…思い出しちゃうのも無理ないか…」
佐藤聖…さっきの話の途中に出てきた、久保栞さんの姉。

「昨日、食堂でおっしゃってましたね。佐藤聖さまは千早さまに雰囲気が似ていると」
「そうよ。あの方は…性格が難しくて日本人離れした外見をしている所が千早ちゃんと共通していたのよ…あと…」

少し言葉に詰まりながら…まりや従姉さんは…

「同性愛者だったのよ…そして矛先が栞に向いていた…」

…とてつもなくまずい「ことを言ってのけた。
…その事実を理解するのに少し混乱してしまった。

ちょっと待て!
それは…一般に受け入れられるものじゃない。
海外では同性愛婚姻が法的に認められている地域もあるけれど…それはあくまで例外。
カトリックでは同性愛は禁止されている。
信仰者の代表のような久保栞さんにとって絶対に禁忌のはずだ。

「栞もあの人のことは好きだったの…紫苑さまの言うとおり、神を恐れぬ不届き者だったわ…
 まあアレも栞に妹ができてからは、まともになったんだけどね」
「現、白薔薇のつぼみロサ・ギガンティア・アン・ブゥトンの藤堂志摩子さまですね」
史も驚きを隠せないまま、まりや従姉さんに確認する。

白薔薇さまロサ・ギガンティアとか寮官とかの肩書きを背負っているのに、信仰しか頼れるものがないのが栞の本質なのよ。
 その栞が佐藤聖さまと別れてから、まだ2ヶ月しか経ってない…
 そしてさっきの千早ちゃんの態度は佐藤聖さまがかつて栞に対してとった態度でもあるの
 佐藤聖さまのことを思い出してしまったのね」
…つまり、久保栞さんにとっての心的外傷トラウマというわけか。

「大丈夫でしょうか?」
心的外傷トラウマが人を壊すと言う事がにいかなる事か、御門千早は知りすぎるぐらいに知っている。
自分と…最も身近な人達の例によって…

だから、久保栞さんの問題は他者が対処できる域をはるかに超えてしまっていると分かっているのに、考えずにはいられない。

「大丈夫よ、栞はそんな事で自分を見失うほど弱くないわ。少し時間が必要なだけよ」
まりや従姉さんの言葉に、安心する。


「そういえば…」
史が何かを思い出したかのように首をかしげる。


「千早さま…気付いておられますか?」
え?何に?

「奥様と史以外の方に。お料理を振舞われるのは、初めてです」
「うそっ…あんなに手際いいのに!?」
まりや従姉さんが信じられないといった風にこちらを見てくる。

「それに、ずいぶんとお優しいなと思いました。柏木優雨さんに対しては…」
「千早ちゃん…もしかして…その…」
まりや従姉さんが珍しく何かを言いたそうにしてる。

「その女装って…マインドコントロール?『ワタシは完璧な女性です』っていう…」
「仕方なくです。そうでもしないとこんな所にいられるはずがありません」
ため息をついて言い返してしまう。



「さて、そろそろ消灯時間。大人しくしてないとまた栞に眉をひそめられるわよ」
そんなまりや従姉さんの言葉に気付かされるまで、リリアンの初日に体験したことの話題は尽きなかった。

ケイリ・グランセリウス、松平瞳子、哘雅楽乃、冷泉淡雪。そして華道部先輩の香原茅乃さんに十条紫苑さん。
あと、自分の事を『白銀公』と呼んで周りを囲んできたクラスメイト達。
そして柏木優・優雨ちゃん兄妹。

史とまりや従姉さんと一緒に、今日一日を振り返ってみると、ずいぶん特徴的な人に絡まれたのだと今更ながらに感じる。

「千早さまには早急に、女性に対する耐性を着けていただかなくてはなりませんので…」
あれ?史…今なんて言った?

「確かに一緒に寝るというのは合理的ね」
どうしてまりや従姉さんまで賛成してるのさ!?

「いや、ここは男が床で寝るというのが一般的じゃ…」
「千早さま、恥ずかしがっている場合ではありません」
いや、そこは史が恥ずかしがってくれないと…


結局…「女の子に恥をかかせるのはよくない」なるまりや従姉さんの暴論に押し切られて史と一緒に寝る事になってしまった。


一つのベッドの上に史と2人で身を横たえる…
睡眠という、全身の力を抜くべき時に…他人が…家族同然の史とはいえ、互いの息遣いが感じられる距離にいるというのはどう考えても日常的に有り得ない…

「どうしたの?史?」
普段はほとんど動じることのない史の微妙な変化に気付けたのは。
そんなお互いのわずかな動きを感じられる状況だからだろうか?

「昔、こんな事があったような…そんな気がしまして…」
そんな声に、忘れかけていた記憶が蘇ってくる。

「どうか、なさいましたか?」
そうか、史は覚えていないんだ。

その言葉を最後に、史のリリアンの初日は終わり。

寝息を立てる史を前にして、今日起こったことをまとめてみる。

決して順調とは言えないクラスへの入室と、いきなりな二つ名の進呈…
放課後にまで続いた騒ぎと放課後の付き合いによりできた3人の『友達』

そして、放課後に出会い。自分に懐いてきた柏木優雨ちゃん。

女装して女子高生に混じっている身としては前途多難だけれども…
不登校児の初日としては、悪くはなかったはずだ。

そんな事を考えているうちに
妃宮千早は意識を手放した。


あとがき
聖トマス・アクィナスも聖アウグスティヌスも、同性愛を禁じた書物を書いていたはず。
ようやく一日が終わり。更新ができましたが…一年以上かかってしまった…


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