花咲く頃に会いましょう 「ごきげんよう、由乃さん」 「ごきげんよう、祐巳さん」 さわやかな朝の挨拶が澄みきった青空にこだまする。 マリア様のお庭に通う乙女が二人、背の高い門の前で立ち止まる。 私立リリアン女学園。 明治三十四年。日本の近代化にあわせ、女性にもふさわしい教養を学ぶ場が必要、という理念に基づいて創立された伝統あるカトリック系お嬢さま学校。 登校して最初にすることは、背の高い門をくぐり抜けマリア様にお祈りすること。 しかし、二人の少女は桜吹雪だけが越えられる閉ざされた門に背を向け、誰かを待つかのように遠くを見つめ始めた。 そもそも、いくら特色のあるリリアン女学園でも、門が開けられる前の眠い時間に登校する生徒などいようはずがない。 おちおち眠っていられない程の、心配事でもない限りは… 「祐巳さん。いくら早いからといって、倒れないでね。 白薔薇さまと一緒に登校してくる生徒たちにみっともない姿を見せられないわよ」 隣で同じ人を待つ友人の声に、福沢祐巳はあわてて傾いた姿勢を正した。 この時間は守衛さんが門を開ける前の早朝、早寝早起きが得意ではない祐巳にとって立っているだけでもつらい時間帯である。 山百合会の集まりに遅刻し祥子さまに叱られ、お腹を鳴らしてしまった事が思い出されて恥ずかしくなった。 「でも、こんな朝早くから白薔薇さまと一緒に来る人がいるかな?」 鈍い頭を動かさないといけないので、頭に浮かんだ事を口にしてみた。 「少なくとも陸上部の御門まりやさまは来るはずよ。 白薔薇さまと同じ時間に登校した後に運動場で走ってる事は有名だもの」 朝一番に白薔薇さまに関わる物好きは自分達ぐらいで、 「あれ…まりやさまもこんな朝早くから登校してるの?」 「頭がうまく働いてないわね。 御門さまは一年生の時からずっと白薔薇さまと寮から一緒に登校なさってて、 朝に誰よりも早くから朝練してるから一番の長距離スプリンターでいられるのよ。 それと、本人の前で『まりやさま』って言うと嫌な顔をされるわよ」 由乃さんの姉、支倉令さまを『令さま』と呼ぶようにリリアンではほとんどが下の名前で呼び合う。 だけど、カトリックのリリアンで『まりやさま』ではあまりに物議をかもす呼び方なので彼女だけ例外として『御門さま』と呼ぶ事になっているのは有名な事だった。 祐巳の頭はまだ半生解凍の状態らしい。 それにしても、病弱だったはずの由乃さんの頭は対照的にスッキリしているのはどういう事なんだろう? 「入院してる時は消灯と起床がきっちり決められていたから早寝早起きになったの」 しまった…また表情を見抜かれてしまった。 「去年の癖が抜けずに教室で私を見て驚いたり、志摩子さんを探したりするのはまだ大目に見られるけど、何でも顔に表れるのは直したほうがいいわよ…あ…」 驚いて遠くを見つめる由乃さんの視線を追うと はるか遠くに先頭を歩く白薔薇さまに続いて多くの生徒が歩いているのが見えた。 こんな朝早くから九人の生徒…寮に住む生徒の全員…を連れて登校してくるなんてさすがは白薔薇さまだ。 「そうか…三年生のお姉さま方お二人が早く登校なさってたら、寝てる訳にいかないものね」 白薔薇さまは良い一日になりそうだと穏やかな笑みを浮かべていらっしゃり、朝早くに来る苦労が報われた気分になってしまう。 そんな白薔薇さまの側に二人、特徴的なお方…おそらく三年生がいた。 陸上部のエースの三年生御門まりやさまは祐巳も知っていた。 肩までの長さの活動的な髪に愉悦を含んだ顔立ちは、典型的なお嬢様のお姉さまとは違った妙な気品を感じさせている。 あまり知られていないけどリリアンの幼稚舎の頃から小笠原祥子さまと犬猿の仲で、祥子さまの妹の祐巳としては厄介事ばかり起こしてくれるトラブルメーカーである。 だけど卒業してしまった前の白薔薇さま、佐藤聖さまのような砕けた性格は不思議に親しみが持てて人気もある。 もう一人は知らない人だった。 背が高く、栗色のさわやかな髪を腰まで伸ばし、優雅に歩きながら 祐巳が薔薇さまと呼ばれ慕われるお姉さまと過ごした時間は短くないのに、全く質の違った魅力に見とれてしまう。 あんな目立つ人は見たことがない。 後に続く一・二年生達と雰囲気が違うけれど、新入生だろうか? しかし、この前の新入生の顔合わせでは居なかった。 なら、特別な事情で急にリリアンに通う事になった方なのだろうか…柏木優雨ちゃんのように? 「ごきげんよう。祐巳ちゃん、由乃ちゃん」 「ごきげんよう、祐巳さん、由乃さん」 「紅薔薇のつぼみ、黄薔薇のつぼみ、ごきげんよう」 「ご…ごきげんよう…」 「おは…ごきげんよう」 丁寧な リリアンの挨拶にまだ慣れていない一年生 もう慣れている二年生…など、四月限定の多彩なリリアンの朝の挨拶が響く。 「思いがけずこの時間にあなた達に会えるとは、今日は良い一日になりそうです。 新しく入った瑞穂さん、こちらの二人は私が所属する山百合会の二人のつぼみです」 「黄薔薇のつぼみの、島津由乃です」 「紅薔薇のつぼみ、福沢祐巳です。よろしく」 白薔薇さまは寮の生徒達の面倒を見る役目も受け持っている。リリアンの新入生に祐巳と由乃を紹介するのもその役目のうちなんだろう。 そんな責任ある白薔薇さまと比べると、祐巳はつぼみどころか苗床から芽吹いたばかりの芽でしかないみたい。 でも、戸惑っているのは白薔薇さまの連れてきた新入生達も同じだった。 特に御門さまの隣にいた人は… 「 さっき『おはようございます』って言いかけたでしょ?」 一番聞き慣れない挨拶はやっぱりこの人のだったんだ。 でも、『 そんな祐巳の疑問を見抜いたのか、白薔薇さまは意外な事をおっしゃった。 「こちらは御門さんの従姉妹の方です。今日からリリアンの三年生に編入する事になりました」 「ええっ」 思わず声をあげてしまう。隣の由乃さんも同じ…。 三年生になって編入してくるなんて、他の学園ならともかくリリアンでは聞いた事がない。 じゃあ、さっきの『 由乃さんが令さまの事を『令ちゃん』と呼ぶのと同じ 顔見知りへの呼び方ということらしい。 二人とも従姉妹に対して呼んでいる事になる。 「白薔薇さまの 朝一番に ……『紅薔薇のつぼみ』に『黄薔薇のつぼみ』と、長い名称で混乱するのはわかりますけど朝一番に優雅に勘違いを披露するのはまずいです。 気まずい沈黙が流れてる…御門さまは「やっちゃった」って表情をしているし、白薔薇さまは苦笑している。 「あのね、妹は一人だけしか持てないし、二人とも白薔薇さまの妹じゃないわよ。」 「あら…ごめんなさい。色々慣れない事もあって迷惑をかけるかもしれませんが…」 考えてみれば目の前の方はスール制度も理解できない初日から、三年生の「お姉さま方」の一員としてふるまわなければならない。 「 3年生になって、全く見知らぬ高校に編入する。それはきっと大変な事に違いない。 幼稚舎からずっとリリアンに通い続けている祐巳には経験のない不安に包まれているはずなのに、優雅に挨拶する瑞穂さまは仰々しさも堅苦しさもなく不思議な親しみやすさを感じさせた。 こんな方がいるのだ、春ボケしているわけにはいかない。 それが福沢祐巳にとって、もう一人の『お姉さま』と呼ぶ事になる方との出会いだった。 (続く) あとがき 「マリア様の乙女がみてる」の連載、ついに開始。 本気で連載する気になってしまった自分がどうかしてると思っちゃったり… 未熟なところばかり目立ちそうな拙作ですが…どうか気を長くして見守ってくださいませ 2012/07/24 千早ルートの追加に伴い変更 |