道場にて


令が剣道場に入ると、そこは異様な沈黙に支配されていた。

道場の片隅、正座して目を閉じている瑞穂さまによって。

凛と正された姿勢からはわずかな乱れも感じられず。
彼女がそうしているだけで、道場の空気は張り詰めていて。


その場の全員が、沈黙を破る事が罪のような気がして何も言葉を発することができない。



彼女がは眠りから覚めるように目蓋を開き、音もなく立ち上がり…


「さあ始めましょう…皆さん。今日この時の研鑽をより良い未来のために」


その言葉と共に道場に音が戻る。



…もう駄目だ…ついていけない。

本来の性別なんて完全になかった事にして、瑞穂さんは完全に『優秀なお嬢さま』になりきってしまってる。

あの調子では誰が見ても、男だなんて思わないだろう。
男だって知っていてさえ、あの振る舞いには憧れさえ抱いてしまう。









困った事に、教室で授業を受けている時よりも瑞穂さんは異様だった。


だから面をつけて顔が見えなくなっても、全く彼を男性と見ることができない。

向き合って竹刀を構えた状況になっても、教室で隣に座っている編入生のお嬢さまの姿が映ってしまう。


あと、道場の片隅で目立つ制服姿の紫苑さまと体操着の由乃も気になる。
本当に大丈夫だろうか、いくら紫苑さまが側に居て監視してくれているとはいえろくに運動もしていないはずなのに筋トレなんて…。




そんな事を考えてると、頭に竹刀が直撃した。






!見えた!
今星が見えたスター!






衝撃に我に返ると、瑞穂さんに飛び込み面打ちを取られていた。


「鍛錬中によそ見とは、令さまらしくありません」


面防具を通して伝わる頭の痛みが瑞穂さんの力を証明していて、性別が違うのだという事が今更実感できてしまう。



でも、今あっさり面を打たれた事を由乃はどう思っているんだろう。
情けない所を見られてしまったかもしれない。


そう思って由乃に視線を移すと、だらしなく床にへたばって紫苑さまに励まされているのが目に入…





!!



見えた!また星が見えたスター!






「よそ見厳禁!」



目の前の人の叱咤と腕力に驚かされた。
教えられたから分かる、女性のものじゃない。



あと…面の向こうから見える瑞穂さんの表情も…。




「鍛錬してもらえる事を楽しみにしていたのに…まりやから姉ばかと聞いてたけどここまでだったなんて…
 わかりました、実力行使に出させてもらいます」




どういう意味だろう…と思った次の瞬間。



こちらの予想をはるかに超える速さで踏み込み、喉元を突いてきた。



日頃の訓練の賜物か初撃を避ける事ができたが、体勢を崩した所に容赦のない追い討ちがかかり、防戦一方になる…。


速く、重く、洗練された一撃一撃が的確に追い詰めてくる。

単純な身体能力の差ではない。

目の前の相手は、令に勝るとも劣らない鍛錬を積んでいる!




「この!」




連撃の合間を見切り面を取ろうとしたが、令が攻撃に転じた瞬間を待っていたかのように相手は防御に転じる。


見切られた。

鮮やかな程洗練された切り返しが面に打ち込まれる。




全く容赦のない打撃…しかもカウンター。


鍛えられ、痛烈な打撃を受けることには慣れている令だがさすがにこたえた。
痛みに耐えて、後退する。

そんな令を気遣ってのことか、目の前の相手は竹刀を下ろす。






「ここは己に克つための場所、私達が道場で許されるのは、自身を表に出すことだけ…
 それができないのなら、来るべきではなかった」


その言葉が、痛みと共に体に響くような感じがした。






「追い詰められているのはあなただけじゃない。あなたの妹を見てみなさい」



道場の端に視線を向けると、震える体を酷使する妹の姿が目に映る。

長い間使ってこなかった機能を呼び覚まそうと、必死に苦しげに…


その姿は今にも血を吐きそうにも見え、今すぐ側にかけ寄ってやめさせたい衝動にかられる。



でも…






「私には、少なくとも今の貴女よりは頼もしく見える」


―負けない―

そんな、初めて見せつけられた妹の奮起が頼もしく見えるのは、きっと…






「それに、追い詰められているのは私も同じ」


―今日この時の研鑽をより良い未来のために―


その身の事情も顧みず、
日常では出せない本来の自分の姿を表に現し、

人間としての意義を問うためにただ無心で鍛えあげる、この人の姿勢と重なって見えたから。





それに引き換え自分は…由乃を見守っているつもりで。
妹の希望にさえ気付いてあげられなかった。

いや、それは見守るという言葉さえ適切じゃなかった。

『見守る』というのは、由乃の側にいる紫苑さまの行為を言うのであって…





―籠の中に鳥を入れておくぐらい、いけない事よ―

そんな言葉があてはまる行為だった。








「手を抜いて申し訳ない、覚悟を決めました」



この人が嫌いになれないのは当たり前だ。


令が持てなかったものを当たり前のように持っていながら…
―勝っておごらず―


令に引け目を感じていながら…
―負けて悔やまず―



あらゆるものを受け入れ、包み込むその在り方に憧れたからだろう。







「競いましょう、お互い全力で」



―形式にこだわらず 過去の憂いを捨て 成すべき事を成し 力を得る事ができますように―

そんな栞さんの祈りが思い出される。


竹刀を持つ手に力がこもる。
正面の相手を睨む。
あれほど気になっていた周りの全てが見えなくなる。



―今まで積み上げてきたものの全ては、自分に克つために―







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